和田勝会員が、8月27日の午後に、西東京市のコール田無で、東京雑学大学の学生さんに 「ウグイスってなにもの? 知られざる私生活をのぞく」というタイトルで 講義を行いました。 2時から4時までで途中に10分の休憩を挟んでの講義でした。30名ほどの学生さんが出席してくれました。
コール田無は、西武新宿線田無駅から徒歩7分ほどのところにあります。線路に沿った道を新宿方面に戻って、大きな道に突き当ったら左に曲がって、ちょっと坂道を上がると正面にコール田無の建物が見えてきます。
この交差点の名前は、総持寺・田無神社前といいます。左を向くと確かにお寺が見えます。総持寺という名はどこかで聞いたような、そうだ横浜市鶴見区にある曹洞宗の大本山總持寺と同じ名前ではないですか。交差点の表示と違って寺の案内板には總持寺とありました。こちらは真言宗のお寺さんのようです。門が閉まっていて、中の様子はわかりませんでした。
で、交差点を渡って、コール田無の入り口を求めて右へ曲がると建物に沿ってスロープがあり入口へつながっているようです。でもその右側には鳥居が立っていて、田無神社とあります。コール田無は田無神社と隣接しているんですね。少し時間があったので、神社の中をのぞいてみることにしました。鳥居をくぐって階段を上ると、境内が開けます。
階段を上がると、参道が奥の方へ続いていて、結構広い境内のようです。二つ目の鳥居には開かれた神社と書かれた幟があります。後で調べたら、四六時中境内に入れる神社なのだそうです。それほど長くはない参道の両側には大きな木がそびえていて、雰囲気を作っています。
奥まで進んだ正面に拝殿がありました。注連縄をかけた屋根の下の横柱(虹梁というのでしょうか)の上には立派な龍の彫り物が施されています。
四隅にも龍の彫り物。
拝殿の左手には大きな銀杏の木があります。ご神木だそうです。
それ以外にも銀杏の木が何本かあり、それぞれに黒龍などと書かれた札がかかっています。また境内には、小さな社がたくさんあり、龍の彫像があります。どうやらここは龍神をまつる神社のようです。そういえば、参道の途中に龍神池(小さいけれど)があって、メダカが泳いでいました。
あちこち探検していたら、講義開始の30分前になってしまいました。急いで来た道を戻って、コール田無に向かいました。入口(実は裏口でした、本当の入り口は反対側にあったのです)から中へ入ると、警備員の方がいて東京雑学大学の会場は2階だと教えてくれました。急いで2階に上がり、会場へ。会場にはもうだいぶ学生さんが座っていて(距離をとって)、プロジェクターが用意されています。急いで準備しました。ところがパソコンの信号がうまくプロジェクターに送られないのです。すったもんだの末、別のプロジェクターに変えてもらってようやく用意ができました。ギリギリセーフでした。
紹介された後、講義が始まりました。そうそう、今回は、フェースガードを装着して 講義する羽目に。なんか邪魔だなーと思いながら始めました。時々フェースガードにマイクをぶつけました。
講義の内容は、これまでもこのWebの活動報告で書いてきたウグイスの話です。今回は大学の講義らしく、学生さんたちには、あらかじめハンドアウトとして、スライド枚数を減らして1ページ6コマで合計84コマを印刷したものを渡してあります。 分かり易く、時々は脱線しながらと、心がけて講義しました。終わった後に、いくつか質問をもらったので、まあまあ分かってもらえたかな、と思いました。
帰り際に、コール田無の警備員の方に、この建物のある敷地は田無神社だったのですか、と聞いたら、イヤそんなことはないという返事でした。でも参道の横に建っているのですから、気になります。道を挟んだ向かいの総持寺は?気になっていろいろと調べてみました。SSISSの活動に関係ないのですが、ちょっと補足します、ゴメンナサイ。
総持寺・田無神社前の交差点を右に折れましたが、この道は青梅街道です。青梅街道は新宿追分から青梅を経由して山梨県甲府市に至る街道ですが、江戸時代初期に、江戸城の改築に必要な漆喰の原料となる石灰を青梅から運ぶために整備されました。田無は青梅と江戸のちょうど中間にあるので、馬の乗り換え(継馬)等のための宿場町として繁栄しました。GoogleMapでコール田無あたりの航空写真を見てみると下のようになります。コール田無は青梅街道という文字の左にある青いマークです。
調布田無線という、地図上の中央やや左を南北に走る都道で左右に分断されていますが、左側の上に凸な三角形の敷地の總持寺と、右側の三角お結び型の田無神社の敷地は、なんかつながっていたように思えます。
それで總持寺を調べてみると、創建は江戸時代初め、別の地に西光寺として建てられたものが、慶安年間(1648-51)に現在地に移転したと伝えられている、とありました。さらに、この寺は江戸時代には田無神社(当時は尉殿権現社と呼ばれていた)の別当寺だとありました。当時は僧侶の方が神官よりも一段上でした。いずれにしても、両社が一体であったことがうかがえます。現在の總持寺と名称が変わったのは、明治の神仏分離令によって3つの寺が合併した結果です。
一方の田無神社、こちらの方がずっと古く創建は鎌倉時代後期とされています。こちらも創建された場所はもっと北で、名前も上に書いた尉殿権現社で、龍神が祭神でした。龍神は水の神様ですから、最も生活に密着した自然信仰ですね。その後、分祀したり遷座したりして最終的に今の場所に落ち着くのが江戸時代の初め(1670)でした。上に述べた青梅街道の整備に伴って宿場町を形成するために、幕府の命により住民が北の方から移り住み、おそらくそれに伴って神社も村のはずれに遷座したのでしょう。明治になって神仏分離令によって 寺と神社が分けられるまでは、神社の神号額はこのようなものが掲げられていました。現在は市指定文化財として、総持寺に保管されています。田無神社の由緒や宿場町のことなどは、田無神社のWebページに詳しく書かれています。
寺と神社を結ぶ人物が2人いや4人います。名主の下田半兵衛富永、富宅(とみいえ)親子と、医者の賀陽(かや)玄雪、玄順親子です。どちらも江戸時代末の同時代人です。この辺りは天領で代官がおり、そのもとで名主が村政を行っていました。田無村の名主として、江戸時代末に善政を敷いたのは下田半兵衛親子でした。
「富永は飢饉に備えた救済用穀物を貯蔵する「稗倉」を建て、古くなった稗は貧しい人々や病人に分け与え、富宅は自分の所有する畑を「養老畑」として提供し、その収穫物から得た金銭を村の70歳以上の老人に送りました。
また、二人の半兵衛は田無の地の宗教施設にも多大な影響を残しています。富永は現在の総持寺である西光寺を再建し、亡くなった後に自ら復興した西光寺に葬られました。富宅は自ら出資し、嶋村俊表を招聘し田無神社本殿を建立しました。 」田無神社のページより
そうです。西光寺の本堂の建て替えを、住職とともに推進したのが富永でした。子の富宅は、尉殿権現社の本殿の 建築を神田の宮大工と彫り物師に依頼に行くのです。
拝殿の彫刻については、上の方に写真で紹介しましたが、拝殿内の本殿の彫刻はさらに見事なものです。これらは江戸時代後期の彫り物大工の嶋村俊表の手によるものです。本殿は年に一度の公開の時しか見ることができませんが、田無神社のホームページに多数の写真とともに詳しく載っています。息をのむような見事な作品です。
東京芸術大学学長だった宮田亮平さんも、案内板の中でこう書いています。 「田無神社本殿は入母屋造り銅板葺きで、唐破風、千鳥派風をあしらった総欅造、そして組物は三手先という、江戸期を代表する神社様式の社殿です。とりわけ彫刻装飾が美しく、周囲の扉、欄干、柱、長押など隅々にまで大胆で繊細な彫り物がほどこされています。まさに江戸期の粋を集めた木造建造物といえるでしょう。この本殿は江戸神田の名工嶋村俊表によって造られたものです。嶋村家は当時、「江戸彫物御三家」の一つで、石川家、後藤家とともに隆盛を誇っていた名門でした。俊表はほかに川越の氷川神社(県指定重要文化財)や成田山新勝寺釈迦堂(国指定重要文化財)などの名作を残しましたが、この田無神社の本殿には円熟期の俊表の技量が見事に発揮されています。まことに嶋村俊表の代表作と申せましょう。」本殿・拝殿は東京都指定有形文化財です。全体像は次の写真をご覧ください。
賀陽玄雪、玄順親子についてですが、玄雪は文政6年(1823)に備前(岡山県)の池田藩侍医のときに、妻子を残して医学修行のために諸国修行の途中、田無に立ち寄り、名主下田半兵衛 宅に宿泊しました。その際に急病人が出ましたが、玄雪が治療にあたったところたちまち治癒したそうです。 当時、田無周辺には医者がいませんでした。困っていた富永は、玄雪の医術の腕と人柄を見込んで、田無の地での開業を頼みました。玄雪は備前から家族を呼び寄せ、田無に居住することになり、名主譜代の待遇で村医となりました。富永は必要な費用を寄付して玄雪の医療活動を助けました。村内だけでなく、周辺の農村からも多くの病人がやってきたそうです。
子の玄順は、父から医術を学ぶとともに江戸昌平坂学問所に入学して学び、長崎にも留学して西洋医術を治めました。 昌平坂で学んだので、神田の嶋村俊表を富宅に紹介したのかもしれませんね。明治元年には自宅に手習い所を開設して、農村子女の教育に当たりました。遠く八王子から通ってくる子女もいたそうです。
境内の案内板には、史跡賀陽玄節邸跡として、上に書いたようなことが記されていて、田無周辺の医療と教育の発祥地とあり、(現コール田無)と書かれてるじゃありませんか。やっぱりコール田無は、田無神社や總持寺と関係あるんですね。
明治になって神仏分離令の後は、賀陽玄順が田無神社の初代の宮司となり、その後、代々受け継がれています。
田無神社に戻って、もう少し境内のことを。田無神社の祭神は龍神だと書きましたが、現在では大国主命をはじめたくさんの祭神が合祀されています。でも、大本は龍のようで、境内には、上にも書きましたが、拝殿左手にある樹齢170年の銀杏が金龍で、その他、参道の右側に白龍、黒龍、青龍、赤龍の銀杏の神木があります。
そんでもって、龍の彫像もあちこちに。本殿に金龍があり、その他の4つの龍は、それぞれの方位に合わせて境内に配置されています。当日撮影したのは青龍のみでした。
4つの龍はまとめてこんな感じ。ここからお借りしています。
これ以外にも、あちこちに龍をモチーフとした彫像があります。そうそう、二の鳥居をくぐって少し行った左手にあるり龍神池についても触れておかねばなりません。
田無の地は水の便が悪く、宿場として村ができた最初のうちは、北へ1キロほど行ったところまで水を汲みに行っていたそうです。玉川上水ができて(1653)江戸に水が送られるようになると、そこから分水をして田無に送る田無用水の案が生まれ、幕府に願い出ましたが、なかなか許可が下りず、ようやっと元禄9年(1696)に許可が下り、現在の小平市にある喜平橋あたりで分水し、もっぱら田無宿の飲み水用として用水が引かれました。現在では、小平市にはまだ水が流れる田無用水が残っていますが、その先は暗渠となってしまいました(ここに田無用水に関して写真と地図入りで詳しく載っています、1と2あり)。
分水点からほぼ東北東にまっすぐ進んだ田無用水は、青梅街道の橋場交差点で二つに分岐し、ちょうど青梅街道を南北から挟むように並行して進みます。青梅街道沿いに並んだ家々に飲み水を供給していたことが読み取れます。北側の水路は、總持寺の南側塀際を通り道路を渡って少し北へ進み、東に折れて田無神社の境内を横切り、少し進んでから南下しています。下の地図の青い線が田無用水です。この地図は「川のプロムナード」というページの上記リンク先からお借りして手を加えました。とても丁寧な手の込んだページです。ご覧ください。作者に感謝します。
現在では、上の地図に載っている部分の田無用水は、すべて暗渠となっています。二本の暗渠になったところは、北側が「やすらぎのこみち」、南側が「ふれあいのこみち」と名前の付いた遊歩道になっています。 地図(特に航空写真)を見ると 日本の遊歩道が用水の跡であることがよくわかります。 上の地図のリンクをクリックして拡大して眺めてください(田無用水再生プロジェクトのページより)。
上に書いたように、田無用水は田無神社の境内を横切って流れていました。その名残として参道を横切って神橋が架けられています。
田無用水は、往時には住民に飲み水、煮炊き用の水を供給するともに、川べりの景観と生態系をも提供していたでしょう。 田無用水を復活することは難しいけれど、水辺を再現することは大きな意味があると考えた田無神社の宮司が、NPO法人に相談して、用水のあった場所にビオトープを作ろうと計画して、できあがったのが龍神池です。2018年のことでした。講義の前にこの池を見たときは、神社の境内によくある昔からの池だと思ったのですが、知らべてみると新しいんですね。でも単なる池ではなく、田んぼの土や移植した植物、メダカなどで、多様な生態系を作ろうとしていることがうかがえます。
これでやっと生物っぽい話題に戻りました。もう終わりにします。でも、土に根付いた歴史って面白いですね。